安井歴代之墓 |
墓石側面に刻まれた名 |
幕末期に活躍した囲碁家元の九世安井算知(俊哲)は、「囲碁四哲」の一人である八世安井知得仙知の実子で、同門の太田雄蔵、阪口仙得と、本因坊門の伊藤松和と共に「天保四傑」と称された強豪です。
文化7年(1810)両国橋近くの薬研堀にあった安井邸で生まれた俊哲は、幼い頃より姉と一緒に、近くの本所相生町にあった本因坊家へ出向いて腕を磨きます。
父仙知は、俊哲が若い頃に遊びまわっていても注意することはありませんでしたが、対局で見苦しい負け方をしたときには叱責したと言われ、天保4年(1833)に六段へ昇段。天保8年(1837)には手合割は六段のままでしたが名目上七段へと昇段した俊哲は、天保9年(1838)に父の死にともない家督を相続し、名を九世安井算知と改めています。
なお、算知の名跡は三世名人碁所の二世安井算知が名乗った名であり、区別のため二世は「名人算知」と呼ばれています。
九世算知の棋風は無双の力碁と称され、特に親しかった10歳下の十四世本因坊秀和との間に130局あまりの棋譜が残されています。その中には秀和の星打ち、算知の三々や天元打ちなど、かなり野心的な対局の棋譜も残されていて、互いに切磋琢磨していた様子がうかがえます。
当時の安井家は、算知ら「天保四傑」の他、海老沢健造(後の方円社3代目社長・巌埼健造)、鬼塚源治、奈良林倉吉、中村正平の安井門四天王などの活躍により、碁家筆頭の本因坊家をしのぐほどの隆盛を誇ります。
算知は、弟子の海老沢健造が、当時10歳の息子算英(安井家十世)があまりに稚拙な手を打ったため思わず手を上げ、算英が泣いて母親に訴えた事から、妻の抗議により健造を呼び出します。
しかし、健造から算英の打った碁の内容を聞くと、逆に健造を褒め、今後も兄弟子として算英が同じような手を打ったら遠慮なく殴ってくれと語ったそうです。家元の息子として算知自身も囲碁に関しては父に厳しく育てられた事が影響していると考えられます。
九世安井算知は、安政5年(1858)、健造を伴い関西を遊歴し、その帰路に沼津で亡くなります。そして家督は最後の当主・算英が12歳で継いでいます。
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